(好きな言葉)
好きなことをやっている人は、自然と自分の周りの人にやさしくなれます。
僕たちはみんな、「相手に優しくありたい!」と想う気持ちはあるけど、実際にそれを実行しようとすると、
「なかなかそうもいかないんです…」
という状態におちいることがあります。
人に優しくできない理由は、さまざまですが、その要因のほとんどは
余裕がないからです。
では、「余裕」にはどんな余裕があるでしょうか?
・ゆっくりしていられる時間の余裕
・(まずは)生活できる分だけのお金の余裕
・相手の考えを聞き入れて理解してあげられる精神的な余裕
などさまざまです。
お金の余裕については、実は、僕たちの多くが「①生きるのに必要なお金」と「②自分の欲求を満たすためのお金」をごじゃまぜにしているケースは多いです。
まずは、1ヶ月の支出を①②に分別して、自分を「観察する」と、新たな自分に出会うための改善策が見えてくる場合が多いです。
ところで、それらの余裕は、いつ満たされるのでしょうか?
その「余裕を満たしたい!」という思いは、昨日、今日考えついたことでしょうか?
多くの場合、その想いは、何年も前、人によっては何十年も前から
「余裕のある人生をおくりたい!」
と思って、今日までいまだに解決されていない…
その理由はいったい何でしょうか?
その時、その場で、その人と!
その理由は、僕たちの多くが
何を目的に、
何を求めて、
日々生活をしているか
自分の人生を生きているか
を自分が「そうそう、そのなのよ!」
と心の深いレベルで感じられていないからです。
人生の幸せについて、ユダヤ人はとても明確な答えがあるといいます。
■Aさん:あなたの人生の目的は何ですか?
▶︎ユダヤの方:人生の目的ですか?そんなの決まっています!
人生の目的は、美味しい食事を大好きな人と心ゆくまでゆっくりと味わい、会話を楽しみ、その時間を満喫することです!
現代では、食事をバラバラに、そしてお腹をふくらませるためだけに適当にしていたり、話すこともないからなのか、誰かと食事をしていても、食事中にずーっと「スマホ画面とにらめっこ」している人が多い印象があります。
(人によっては、移動中、何かの待ち時間でも、一年を通してほとんど「スマホ画面とにらめっこ」している場合もあります。)
ユダヤの人は、お金があるから「時間に余裕が持てるんだ!」
という声も聞こえてきそうですが、
1ヶ月の支出を「①生活する上で絶対に必要なお金」と「②自分の欲を満たすためのお金」に分けると、①はそんなに大きくない場合がほとんどです。
(「タバコを吸わないと私は死んでしまう症候群なので、私の場合、タバコは①ですな!」という意見もありそうですが、実際には、健康を害していますから、とりあえず②に分類しておきましょう!)
そうやって整理すると、
お金の余裕の本質は、「生きるために必要なお金」であるかどうかを整理することで明確になり、「必要だ!」と思い込んでいたお金のほとんどが、テレビCMやインターネット広告によって「思わされていた」だけだったことに気付くことができます。
ぜひ、この記事を読み終わったらば、さっそく、上記の①②を1ヶ月分書き出して整理してみてください^^
僕たちは、日々何を求めているかというと、
楽しい時間
幸せな時間
ワクワクな時間
を求めています。
そして、それらの多くは、「つながり」の中で生まれます。
人との「つながり」、
内なる自分(心の奥深くにいる自分)との「つながり」によって生まれます。
時期、自分が今生きている「ステージ」によって、
楽しい時間
幸せな時間
ワクワクな時間
が、「自己との対話」によって生まれるのか、「人とのつながり」によって生まれるのかは異なります。
しかし、ひとつ忘れてはいけないことは、
今、目の前に広がっている世界で結びついているご縁(人たち)は、今しかいないという事実です。
30年後も、50年後も
今と同様にいてくれるかは分からないですし、いない可能性が高いです。
よくよく現状を整理すると、
・ゆっくりしていられる時間の余裕
・(まずは)生活できる分だけのお金の余裕
・相手の考えを聞き入れて理解してあげられる精神的な余裕
などの余裕は、いとも簡単に達成できる余裕であることに気づきます。
僕たちの人生には浮き沈みがありますが、
「目の前の人は、ずーっっっっっっと一緒にはいてくれない!」
という事実を認識しつつ、今日も自分の求めるべきものを求めていきたいですね^^
その時
その場で
その人と!
素敵な言葉にふれていくと、毎日が楽しくなりますね!
という人がいますが、僕がそう思います。
今日はどんな素敵な言葉をいただきましたか?
ぜひ、メモ帳に書いていって、「あなたの言葉」にしてみてください^^
Taiwaでした!
それではまたー
(ご飯中は、楽しく会話をして行きましょー♪)
人は、大変なとき、キツイときに、はじめて人格が問われる